<メッセージの紹介>
ここの直前のみことばで、イエス様は「すべての者たちは皆、神の前に殺人という罪を犯している!」ということを教えてくださいました。…と言いますのも、当時の律法学者やパリサイ人たちは、「自分たちは誰一人、人を死に至らしめていない!=自分たちは殺人者ではない!=自分たちは、神の律法を守り行なえている!」という風に思っていたからです。

いいえ!神様の基準は、そのような次元の低いものではありません。そもそも、神様は、私たち人間が神の基準には達し得ない(=人は行ないでは救われない=義人はいない)ということを教えるために、旧約聖書のみことば(≒様々な戒め、律法の教え)を与えてくださったのです。…にも関わらず、当時の律法学者やパリサイ人たちは「自分たちは、神の律法を守り行なえている=自分たちは、神のみこころにかなっている=自分たちは、行ないのゆえに救われる」と傲慢にも勘違いをしておりました。

だから、イエス様は、当時の律法学者やパリサイ人たちの教えの間違いと、神様の基準がいかに高いものであるかを、ここマタイ5章後半で説き明かしてくださっているのです。私たち日本人も、「私は、警察のお世話になったことはない=私は、比較的良い人間だ=私は死んでも、天国に行けるだろう」と安易に考えておられる方が、少なからずおられます。

しかし、本当にそうでしょうか?私たちが、そのように考える根拠はどこにあるでしょうか?私たちは、そういったことをいい加減に済ませないためにも、自分たちの勝手な思い込みではなく、神様のみことばである聖書によって確認すべきです。果たして、聖書は、そういったこと(今回の場合は、姦淫)について、何と教えてくれているでしょう?どうぞ、このメッセージをお聞きください。

#八田西キリスト教会 #土井義広 #マタイの福音書 #山上の説教 #山上の垂訓 #律法学者とパリサイ人たちの間違い #間違った教え #的外れの救い #ほかの福音 #愚か者 #和解 #赦し #心 本当の救い #義のために迫害 #まことのいのち #様々な罪や誘惑に勝利するための方法

<メッセージ動画の構成とタイムライン>
0:00 導入&命題:姦淫に関する神のみこころとは、どのようなもの?
2:45 Ⅰ・姦淫の定義:イエス様の言われる「姦淫」とは?(27-28節)
3:34 ・ここで、イエス様が問題としておられること
9:44 ・姦淫の罪を犯しやすいのは、一部の者たちだけでしょうか?
12:23 Ⅱ・姦淫という罪の報い:姦淫に下された罰とは?(29-30節)
13:18 ・当時、姦淫の罪を犯した者たちが受けていた非難
18:30 ・マタイ5章後半で、イエス様が訴えておられること
22:25 Ⅲ・姦淫罪の赦し:イエス様からの勧めとは?(29-30節)
23:15 ・その緊急性と重要性
36:25 ・様々な罪や誘惑に勝利していくために、必要なこと
42:01 メッセージ終了

●聖書個所(新改訳第三版):マタイの福音書5章27-30節
27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。